映画研究塾トップページへ
2013年12月15日
この批評は2009年7月30日、シネコンで二回続けて見たあと、8月12日に三回目を、17日に四回目を見てから翌18日に出された批評です。この作品は当時、脚本家のクレジットがないことで批評家たちから批判されていた経緯があり、それに対するカウンターパンチとして怒りながら書いた記憶があります。いかに批評家たちが画面を見ていないか。そういう人たちが徒党を組んでみんなで一つの作品を侮辱することがどれだけ恥ずかしいことか。当時書かれたままに、ここに再出します。
映画批評
「アマルフィ~女神の報酬」西谷弘~ゴダール「アワーミュージック」への返答について 2009.8.18
こういう映画を「シネコン」に乗せて良いのだろうか。これはどちらかと言えばミニシアターに乗るような「アート系」映画であって、だからこそこの映画が「フジテレビ開局50周年記念」として撮られたことに驚きを隠せない。良く製作サイドはこのような映画をそのまま封切らせたと思う。
では「このような映画」とはいったいどういう映画なのか。それは「映画の文法」によって撮られている映画をいう。もちろん小津が「映画には文法はない」といったように、映画に文法はない。では、「映画語」と言い換えよう。「アマルフィ 女神の報酬」は「映画語」で撮られている。
■しゃべらないこと
クリスマスが近づくローマの町並みのスナップ・ショットからオーヴァーラップでつながれた画面に夜の雨に濡れた舗道をゆく白い車をクレーンで上昇して捉えながら、何人かの監視者とおぼしき白人の男たちをキャメラは収め、今度はクレーン下降すると、白い車から降り、ホテルの中へと入って行く男と女をキャメラは捉える。フロントの手が、「508」と書かれた鍵をサッと取るクローズアップをさり気なく入れながら、男はひと言ふた言、フロントと言葉を交わすと、キャメラは「こんばんは」と日本語で男に声をかける、クリスマス衣装に着替えた首にアザのあるポーターへと対象変化され、そのままポーターの見つめる監視カメラの画像を映し出す。監視カメラに映し出された男と女は、密着し濃厚なラブシーンを演じている一組のカップルとは対照的に距離を保ちながら無言でエレベーターを待っている。ショルダーバッグを肩に掛け。赤いカバンと紙袋を持っている女は、エレベーターの中でも、うしろでイチャつくカップルを尻目に、横に立っている男を決して見つめようとはしない。
部屋に入った女はクローゼットを空けると、キャメラは女のタートルネックの白いセーターにつけられるブローチ、そしてソファーから取り上げられる赤いカバンと紙袋のクローズアップを印象的に挿入しながら、ネクタイをはずしテレビを見ている男と交互に画面に映し出される。どちらもただならぬ雰囲気であり、女が男の脇を通ってすれ違う際、二人の顔は無言の切返しショットによって捉えられるが、双方の視線は完全にそらされていて決して見つめ合うことは無く、すぐ二人は逆方向へ通り過ぎてしまう。
ここまでが最初のシークエンスである。時間にして五分前後だろうか、この間、ただひと言の台詞もない。通りの外で二人を監視していると思しき男たちがイタリア語で何か呟き、またフロントやポーターとのさり気ない会話などはなされているものの、ここには何かを説明し、あるいは取り立てて何かを強調するような台詞はただのひと言も存在しない。ひたすら映画は我々に「見ること」を要求している。この時点で既にこの映画は「シネコン映画のルール」を冒涜している。「シネコン映画」とは「バカな観客に言葉で一から十まで説明しなければならない」というルールに則って撮られた映画だからである。
さらにここで「男」や「女」と書いたのは、この二人の「名前」が呼ばれてはいないからにほかならず、ポーターも「首にアザのあるポーター」としか特定できず、その他固有名でもって指示された人物はここまで一人も存在しない。シネコン映画でこんなことをして大丈夫なのだろうか。アマルフィへと向う海岸の航空撮影にしても、ベランダにおける抱擁にしても、監視カメラの検証にしても、殆ど台詞という台詞が入ることもなく、映画はひたすらわれわれに対して「見ること」を要求し続けている。終盤、渋滞で織田裕二たちが車から降りたあと、携帯に入った佐藤浩市からのメールの文面は、決して声を出して読まれることはなく、それどころかすぐに画面は切り替わってしまい、メールの文面は永遠に闇の中へと葬られてしまう。この映画は「明らかに」シネコン映画の範疇を逸脱している。
私が先日、シネコン映画「地球が静止する日」を発作的にベストテンに入れたのは、まさにその「台詞の少なさ」であったのだが、それが例えば平均点で見ると、みんシネ4点 シネスケ2.6点とった低評価へとつながることを予告する意味も兼ねていた。この「アマルフィ 女神の報酬」もまた現時点でみんシネ5.5 シネスケ3点 となっていて、みんシネの平均点は今後もっと下がると容易に予測できる。モノローグ的主体として、自分が「話すこと」を自分で「聞くこと」を教育され続けている我々は「台詞の少ない映画=他者」に対してひたすら戸惑うしかない。「映画語」に反応できなくなってきているのである。
そのような中で西谷弘は、デビュー作「県庁の星」において、両親の写真だけで柴崎コウの家族構成を我々に語らしめ、「容疑者Xの献身」においては冒頭、アパートの隣の部屋(オフ空間)から聞こえて来る母(松雪泰子)とその娘との早朝の会話だけでその隣家の家族構成を見事に語りしめている。今時のシネコン映画に「ひたすら目を凝らしてみること」や「聞き耳を立てること」を観客に要求することなど、一介の映画監督なり制作者なりに許されることなのだろうか。
あるいは、タイトルが出る直前の画面と、大使館での人質のシークエンスの最後の画面は突然真っ暗になって音も消えるのだが、ゴダールではあるまいし、シネコン映画でこういうことをやってよろしいのだろうか
■放っておくこと
私は以前どこかで『「スター」を画面の中で放っておくことができる人(監督)が出てこないものか、、』と書いたことがある。「スターを放っておく」とは、映画を「スター」に従属させないところのひとつの資質にほかならない。
戸田恵梨香と織田が始めて出会う空港で、「スターの」織田裕二は、みごとに「放っておかれて」いる。
スリから戸田恵梨香の財布を奪い返すシーンでは、まず織田が歯で左手の黒手袋をはずすシーンがクローズアップで入るが織田の顔は映し出され、続いて織田がスリにぶつかり財布をスリ返すシーンはロングショットで「小さく」処理されている。その後、織田を捜しに戸田恵梨香が携帯電話を耳にしながら歩き始めると、キャメラは戸田恵梨香を斜め左前から後退移動で追いかけるトラッキングからロングショットに引かれ、再び歩いている戸田恵梨香を斜め左前から捉えたトラッキングで捉えた時、その最中に織田裕二が画面の背景に入ってくるにも拘らず、そのまま織田裕二は「放って」おかれて画面の中から消えてしまう。戸田恵梨香が気付いて振り向くと画面はロングショットで大きく引かれて二人を同一の画面に映し出すが、ここでも未だ織田のクローズアップは入らない。
世界の「スター映画」の中で、ここまで「スター」を放っておくことのできる映画を私は見たことがない。
あるいはクリスマスイヴの朝、織田と天海祐希が車で出発するシーンにおいては、キャメラは車のガラスの外から織田と天海を捉えたあと、クレーン上昇し、そのままなんと織田は車を発進させ、ホテル前のロータリーの混雑中へ危なそうな運転で滑り込み、街中へ紛れ込んでゆく。「安全第一」をモットーとする「スター映画」としてのシネコン映画ならば、吹き替えで安全にやらせればよろしいものを、あえて織田に運転させる事で、持続の緊張感を維持させている。ここでの織田は、ただの運転手として「放っておかれている」のである。その直前のホテルの朝の中のシーンにしても、まず天海祐希がソファーで寝ている織田裕二を視線で確認した後、クローゼットで探知機の入ったブローチをはずし、鏡の中に縦の構図で織田裕二が出現するまでの長回しにおいて織田裕二は画面の外に「放っておかれて」いる。ひたすら「安全」を第一とするシネコン映画において、アンドレ・バザンを喜ばせるような複合的長回しが映画の中を幾度も駆け巡っているのだ。
後半から次第に重要となってくる外人たちにしても、例えば美術館の警備員の女は、監視カメラの検証の際、実にさり気なく再現映像の画面の左下隅に「放っておかれて」いるし、首にアザのあるホテルマンにしても、さり気なく画面の中へと放り込まれているものの、決して役柄を「説明」されることはなく「放っておかれて」いる。雪が降ったローマの警備会社の前で、イタリア人に「ゆき(雪)、、」と、日本語を教えている戸田恵梨香もまた見事に「放っておかれて」いるし、アマルフィのホテルで「スター」の織田裕二は、ベランダの天海祐希が泣き始めるまで、白いレースのカーテンの向こうにずっと「放っておかれて」いる。
こういうことが、いったいどういう事なのかというならば、この西谷弘という監督は、仮に相手が「スター」だからといって、あるいは「物語」に絡んでくる人物だからといって「スター」や「物語」に媚びたショットは撮りません、ということだ。「スター」はクローズアップを撮ってしゃべらせ続けていればそれでよい、という映画が氾濫するこの世知辛いご時世において、西谷弘はひたすら「反スター性」に徹している。それによって画面は必要なショットで満たされ物語の経済性に資するばかりか、「スター」のもたらす無駄なショットを極限まで減らす事で、映画をしてひたすら「映画語」として語らしめることを可能にするのである。
この映画の「放っておくこと」を見たとき、「放っておくこと」とは最早「放っておくこと」だけに意味があるのではなく、それはあらゆる映画言語へと拡散し、増殖してゆくことがはっきりと見えてくる。
■「彼自身によるロラン・バルト」
ロラン・バルトは「彼自身によるロラン・バルト」に掲載したとある写真へのメッセージに「私を魅惑する、背景の、女中」と書いている(みすず書房13ページ)。モノクロで撮られたその写真は、前景に猫を抱いて座っている初老の女性が映し出され、後方の戸口には、白いエプロンをした女性が小さく写っている。遠景の戸口からこちらを見ているように見えるその女中の姿は、殆ど暗い部屋の中へと埋没してしまっていて、ただ、白いエプロンと、白っぽい靴だけが、モノクロームの画面の中で彼女の輪郭をそれとして想像させているに過ぎない。それはあたかも西谷弘の「容疑者Xの献身」において、浮浪者のたむろする川沿いの舗道のベンチで福山雅治と松雪泰子が話している時、数十メートル離れた陸橋の上で、かすかなシルエットとして「放って置かれた」柴崎コウの姿とだぶっているようでもある。
「彼自身のロラン・バルト」と「容疑者Xの献身」を比較することは滑稽だろうか。写真の手前に写っているのはバルトの親族とおぼしき初老の女性であって「スター」ではない。したがってこの写真は「反スター写真」であることを理由にバルトをして「私を魅惑する、」と書かしめたわけではない。だが両者はそれほど異質だろうか。写真の手前の女性は、その少し開けられた口元の感じからして何かをしゃべっている途中のようでもあり、この写真は多くのドガのように、連続する動作の一瞬を切り取ったところの「スナップ写真」のようなものとして撮られている。背景におかれた女中もまた、一連の動作の中でたまたまあの場所に出て来たようにも見え、この写真に「家の中から出て来て主人を呼ぶ女中」という「物語」を題名として付与することもできそうである。こうしてこの写真を「物語的に」読んでみた時、猫を抱き「手前」に座っているこの女性は「主人公(スター)」として撮られており、対して「背景」にポツリと立っている女中は「脇役」として撮られていることになる。画面を「物語」としての遠近法で読んだ時、「手前」とは特権的な場所であり、「背景」とは脇役に過ぎないからだ。
だが、「家の中から出て来て主人を呼ぶ女中」という「物語」が成立するためには、背景の女中はしっかりとした輪郭と遠近法でもって画面に収まっていなければならない。均質的で連続した空間に事物が絡め取られて初めて「物語」は善良に成立するのである。だが黒い影にすっぽりと包み込まれ、エプロンと靴の「白」だけを異様に輝かせている女中の姿は、明らかに「遠近法」からも「物語」からも排除されている。バルトはわざわざ「背景の」と書いているように、手前に映し出された親族と思しき女性を完全に無視し、「背景の」を強調している。バルトはこの写真の醸し出す連続性(物語)ではなく、「女中そのもの」に「魅惑」されていたのではないだろうか。そこにあるのは「自然らしさ」という連続する物語の中心へと吸引される運動ではなく、あるいは遠近法という均質的な空間の中に取り込まれることで意味を際立たされるに過ぎない人物でもなく、あるいは「前景」を前提とした「背景」という「物語(関係)」ですらなく、ひたすら物語における脇役の場所においてさり気なく立っている女中の、遠近法的均質性と連続性から断ち切られた「露呈」そのものではなかったか。この女中は「背景」という「物語」から独立し、分断させられ、固有名としての「この私=他者」として非対称的に露呈してしまっているのだ。
「放っておくこと」とは、物語の連続性に裂け目を生じさせ、「露呈」させることなのだ。画面の手前と、背景とが、決して「手前と奥の」という遠近法的で均質的な「読める物語」としての「関係」へと求心されることなく「ただそのもの」として絶対的に差異化されるのである。
■「市民ケーン」
もはやこうなってくると「容疑者Xの献身」において、少女が長塚圭史を殴るために使った凶器が「水晶玉」であったのは決して偶然とは思えない。映画史において「水晶玉」といえば、パンフォーカスという歪曲した構図によって「手前」と「背景」との遠近法を破壊した歴史的映画であるとされるオーソン・ウェルズ「市民ケーン」の冒頭、チャールス・フォスター・ケーンの手から滑り落ちたあの「水晶玉」であったはずである。
■構図=逆構図による切返しロメドラマの拒絶~ローマ篇
この「アマルフィ 女神の報酬」が拒絶しているのは「説明すること」や「遠近法」ばかりではない。「構図=逆構図による切返し」によるメロドラマをも、この映画は「徹底的に」拒否している。
一般論からしても、この映画には、しゃべる者→しゃべる者へと構図=逆構図の切返しによって切返されるモンタージュが極めて少ない。切返すにしても、外から他の人物の肩や頭を手前にナメて画面を締めてみたり、あるいは会話をしている以外の者のショットをさり気なく会話中に入れるなどして、画面が「言語」に従属することを頑なに拒否している。AとBとが構図=逆構図による切返しによって会話をする時、通常ならばAがしゃべる時はAを、Bがしゃべりだす直前にBを、という具合に「言語」を機軸としてキャメラを切返すことで(スター)映画(特にメロドラマ)は撮られていくのだが、西谷はここにCという、第三者を挟み込む事で、キャメラが「言語」に従属することを拒絶している。その「C」という方便こそ、戸田恵梨香という娘の存在にほかならない。いったい彼女は何度、他人様の会話の途中にその無言の姿を画面に挟み込んできただろう。外交官の会議室での佐野史郎と織田裕二との会話、キャフェテラスでの大塚寧々と伊藤淳史との会話、美術館の警備室での織田裕二と天海祐希との会話、あるいは警備会社(ミネルヴァ)で天海祐希が銃を構えてホールドアップした時にすら、何度もこの戸田恵梨香の無言の姿が、会話の当事者ではないにも拘らず画面の中に飛び込んできていたはずである。
西谷弘は前作「容疑者Xの献身」においても同様に、会話の部外者である第三者を何度も画面の中に挿入している。それを可能にしているのが柴崎コウと北村一輝の刑事の「コンビ」にほかならず、この二人はレストランや取調べや聞き込みなど多くの場面で「コンビ」として連れ立って行く事で、堤真一や福山雅治となされる多くの対話は「3人で」構成されることになる。そうすることで、会話に参加していない者を画面に挿入することが可能となっている、つまり、人物の配置や人物の創作そのものが、「マクガフィン的」な発想によってなされているのだ。西谷弘のこうした演出を可能にするためには、ひとつの空間に最低「三人」の人物が存在することが必要であり、そうであるからこそ「アマルフィ 女神の報酬」には「戸田恵梨香」という、主人公でもヒロインでもない、第三の人物が必要とされたのである、というマクガフィン的な思考回路が可能となる。同様に「容疑者Xの献身」における柴崎コウもまた、「物語」としての人物であるとともに、「第三の人物」たる狂言回しとしての役割が多く課せられている。こうした「マクガフィン的思考回路」がいかに映画を豊に彩るかは、前回の成瀬論文で少しだけ書き、次回の成瀬論文では徹底的に検討することにもなるのだが、「言語」や「スター」や「物語」への一方的な従属を拒絶するという一連の演出こそ、西谷弘の「マクガフィンの作家」としての資質が露呈している。
●ゴダール
ゴダールは「アワーミュージック」の中で、ハワード・ホークス「ヒズ・ガール・フライデー」における、ロザリンド・ラッセルとケーリー・グラントとのあいだになされる構図=逆構図による切返しをして「まったく同じ写真だ」と、劇中人物の「ゴダール」をして言わせしめ、「ホークスには男と女の違いが見えなかったのだ」と暗に批判している。
「構図=逆構図による切返し」とは、見つめあうことを映画的に擬制するメロドラマ的手法であり、相手を見つめている瞳と瞳とを構図=逆構図による切返しによって交錯させることで、結果として「視線の交わり」を完成させる(擬制する)手法である。「アマルフィ 女神の報酬」は、この「視線の交わり」を、特に織田裕二と天海祐希との視線の交わりを徹底的に拒絶する事で、「反メロドラマ」として撮られている。
ローマでは。
■はぁ、、はぁ、、
「ゴダールへの返答」については後に譲るとして、非常に重要な細部についてこれから見て行く。
それは天海祐希の「呼吸」である。
娘を誘拐された天海祐希は、重たそうなショルダーバッグを肩に掛け身代金の入った赤いかばんを持ってひたすら走っている。まずもって美術館の監視カメラの下では二つのカバンのほかに紙袋まで下げた天海祐希が「はぁ、、はぁ、」と息をつき、駅の構内を駆け抜けたときには息も絶え絶えになって「10分経ちました!はぁ、はぁ」と何度も吐息を吐き、さらに天海祐希は、バチカンの展望台の階段を駆け上がってゆく織田裕二を「はぁ、はぁ」と死にそうになって追いかけて、さらには、織田裕二が落ちていたアイスクリームを踏んづけて「ローマの休日」にあっけらかんとしたオマージュを捧げながら駆け上がるスペイン広場の階段を、「はぁ、はぁ、、」と倒れそうになって追走し、そしてその直後、ひったくられた赤いかばんの容疑者が取り押さえられた坂道を、携帯電話を掲げながら「はぁ、はぁ、、」と、ふらふらになって駆け上がってくる。
天海祐希はこの映画では「煙草を吸う女」として描かれている。遡ってローマのホテルの最初の晩、天海祐希がベランダで煙草を吹かしたあと、最初にした運動とは、「はぁ、、、」と大きくため息を吐露することであったことは決して偶然ではない。この映画はひたすら天海祐希が、「はぁ、、」と吐き出す息の運動なのである。
土地としてのアマルフィで天海祐希は、狭いトンネル上の階段を上り続け、「はぁ、はぁ、、」と息切れしたとたん目の前の暗い窓の中から浮き立つように老婆がヌゥと現れ、さらにバンジョー弾きが階段に腰掛けたロータリーまで登ってきて初めて天海祐希がした運動とはもちろん「はぁ、、はぁ、、」である。こうした一連の「はぁ、、はぁ、」という音声は、おそらくアフレコによって録られていると思われる。意図的に「はぁ、、はぁ、、」と言わせて演技させているわけである。
誘拐された子供を捜し続け、その胸をひたすら「はぁ、はぁ」と振幅させ続ける呼吸は、終盤の、車が渋滞した時に、織田裕二との会話に頂点に達している。ここで天海祐希は、織田に向って「佐藤浩市を許すと伝えて!」というときに、大きく胸を上下に「はぁ、はぁ、」と揺さぶり続けている。そしてその瞬間が、スローモーションで映し出されるのである。まるで「チェンジリング」で息子を誘拐された母、アンジェリーナ・ジョリーが「16回の涙」を流したように、天海祐希は、ひたすら「はぁ、、はぁ」という呼吸運動を続けてゆく。その最後の「はぁ、はぁ」を、西谷弘は最後にスローモーションで突出させているのである。
物語に決して吸収されない視覚的な細部において、天海祐希の胸の震えは映画そのものを振動させている。天海祐希に重い荷物を持たせること、ひたすら階段や坂道を走らせること、それらはすべて「はぁ、はぁ」という呼吸運動を引き起こすための方便にほかならない。階段が存在するから天海祐希は疲れて「はぁ、はぁ」と息を吐くのではない。天海祐希という「母」をして「はぁ、はぁ」という呼吸運動をさせたいからこそ、彼女の目の前には階段や坂道や渋滞が存在するのである。だからこそ天海祐希は、バチカンの展望台の階段を上る前、駅のホームで織田裕二に「荷物持ちましょう」と提案されても「いえ!」とはっきり断るのである。天海祐希にとってこの荷物とは「はぁ、はぁ」のためのマクガフィンにほかならないからである。
こうした、「物語からの逆流=マクガフィン」を露呈させるものこそ「視覚的な細部=過剰」なのだ。天海祐希の「はぁ、はぁ、」は明らかに「過剰」である。スローモーションで上下する彼女の胸の振幅は、ひたすら「過剰」として画面を揺らしている。彼女の目の前にこれでもかと存在し続ける坂道や階段もまた「過剰」以外の何物でもない。そうした「過剰」な細部とは、「物語」という遠近法から自由に解き放たれたところで初めて可能となる。「物語」とは「鎖」であり、それは例えばただそれだけで露呈している四つの事物を①→②→③→④の順番でのみ意味のあるものとしてしまう。②は、①と③との「関係」においてのみ意味があり、決して「②そのもの」として見られも聞かれもしなくなる。それが「物語」の恐ろしさである。「マクガフィン的思考」とは、物語を逆流する「反物語」の渦であり、②を②そのものとして「露呈」させるところの豊かさである。「アマルフィ 女神の報酬」における、天海祐希の「はぁ、、はぁ、、」という音声と胸の振幅運動は明らかに「過剰」である。したがってそれは、映画が「マクガフィン的に」撮られていることを証左するひとつの証なのである。
終盤、ローマの道路がシステムの破壊によって大渋滞を引き起こす。これもおかしい。意味がないのである。何も渋滞させる必要はない。そこには必ずやマクガフィンが潜んでいる。だから我々は、この渋滞シーンでいったいどんな「過剰」が惹き起こされたかを目を凝らして見てゆけばよろしい。するとまず第一に、天海祐希が走っている。つぎに天海祐希と織田裕二が、渋滞して動かない数台の車を挟んで見つめ合っている。クラクションが鳴り響いていて中々声が聞き取れない。天海祐希が「ハハ、、ハァ、」とやってそれがスローモーションで撮られている。これらが「過剰」な細部である。こういうことをしたい、させたいがために、車は渋滞したのである。天海祐希と織田裕二の二人を近距離でなく遠距離から見つめ合わせたい、そこで天海祐希に「はぁ、、はぁ、」と吐息を吐かせたい、だからこそ天海祐希は走る→車は止まる→そのためにセキュリティシステムは破壊され、→そのために天海祐希はアマルフィへと向かい→、→、→、、、、と無限に遡っては循環するを続けてゆく。二人が車を挟んで見つめ合う直前、織田、天海、戸田の三人は走り出している。走っている織田裕二のショットには何も入らないが、走っている天海祐希のショットには「はぁ、はぁ」とアフレコで音がわざわざ入れられている。だから天海祐希は走る必要があったのである。
ここで重要なのは、逆方向から映画を撮ることそれではない。それもまたひとつのマクガフィンに過ぎない。重要なのは、物語としての論理的思考回路と、それを逆行する「反物語」の回路を常に同時に携帯する事で、物語と細部(反物語)とを衝突せしめ、物語による硬直した流れに裂け目を生じさせ、生成させ、読み取り不能なものへと発展させてゆく、その「不確定性」を露呈させるところの豊かな日常生活における観察力の一端にほかならない。人や事物を決して「功利=物語」に利用し尽くさないこと。「功利=物語」に回収されない彼らの「ナマ」に対して好奇心を持つこと。好奇心を持ったならば、それを映画の中で「露呈」させること。
アマルフィのベランダで、煙草を呑むことを中止し、肩に上着をかけてくれた織田裕二の懐で天海祐希がしたことといえばひたすら息を大きく吸い「あああああ、、、ああああ、、、」と息を吐き続けて泣くことであったのも決して偶然ではあるまい。そしてまた、ラストのアマルフィの海岸で、天海祐希が海辺で子供を抱きしめながら最初にした運動は、気持ちよさそうに「あ~!」と大きく息を「吐いた」ことであったのは、紛れも無い過剰であり、感動である。
■なぜアマルフィ
それにしてもこの映画の題名の前半部分はどうして「アマルフィ」なのだろう。主要な物語の大部分が「ローマ」で進行しているのだから「ローマ 女神の報酬」で良いはずではないか。それにもかかわらず、この映画の題名が「アマルフィ 女神の報酬」であるという事実が、感動として画面を振動させるのだ。
この映画の織田裕二と天海祐希とのあいだに交わされた「視線」を見てみよう。そうすれば、とてつもなく繊細な細部が振動をし始めるだろう。
まず前述の■「しゃべらないこと」をもう一度読み返して頂きたい。映画が始まってホテルに入り、エレベーターを待ち、部屋へ入り、すれ違い、テレビを見て、煙草を吸い、、、と続いてゆく22日の夜の二人の視線は、まったく「交叉」していない。彼らは頑なまでに「見つめ合う」ことを拒否している。これは意図的な演出としてそうされていることは言うまでも無い。
回想として入る美術館での二人の出会いのシーンでも、「黒田さん!」と呼ぶ戸田恵梨香の声に振り返って初めて天海祐希が織田裕二を見たとき、織田裕二は美術館のオブジェを見上げてソッポを向いている。
それに続く美術館の公会堂のようなところでもまた、織田裕二が帰り際コートを羽織る瞬間、織田裕二から天海祐希へとキャメラは切り返され、二人は見つめ合いを映画的に擬制されているのだが、それはほんの一瞬であり、天海祐希はすぐに目を正面の空間へ向けてしまい織田裕二と見詰め合うことを頑なに拒絶するのである。
スペイン広場で天海祐希がよその子を自分の子とを見間違えた直後において、「矢上さん!」と呼ぶ声に振り向き織田裕二と道路を挟んで見つめ合った瞬間、二人の視線は道路を通る車の数々によって「遮断」されてしまうのである(西谷弘は「容疑者Xの献身」においても同じように堤真一と福山雅治の視線を車で遮りながら切返している)。
さらにその晩、ホテルの休憩室でソファーに座った天海祐希は、視線を真正面に固定したまま、立っている織田裕二と決して瞳を合わせようとしない。立つ、ソフーに座るという二人の場所的関係は、それを補強している。そして帰り際振り向き、初めて二人が見つめ合ったかと思ったその瞬間、天海祐希の強烈なビンタが織田裕二の顔面に炸裂し、直後に天海祐希は失神してしまうのである。間違ってもこれらの構図=逆構図による切返しは「メロドラマ」のそれではない。
西谷弘は、明らかに意図的に、二人が「見つめ合う」ことを拒絶している。人物の配置からしても、「容疑者Xの献身」のラストシーンが横並びのベンチであったように、この映画でも二人は、エレベーター、運転席と助手席、監視モニターを見るときの横並びの位置、ラスト手前の海岸のベンチ、等等「横並び」の配置が多くなされており、そうした点からも映画は「見つめ合うこと」に対して甚だ消極的であるといえる
確かに前半、犯人からの電話で娘が誘拐されたことを知った美術館のモニター室で「お嬢さんが誘拐されました」という織田裕二の視線から天海祐希へとキャメラは切返されたとき二人は見つめ合っているし、ひったくりのシークエンスの最後に二人はフルショットの中で見つめ合っているようにも見える。失神したあとのベッドルームや、クリスマスの朝の路上で織田裕二が天海祐希を呼び止めたときも、構図やショットの連鎖からして物理的には見つめ合ってはいる。だがそれらは間違ってもそれらは「メロドラマ」の瞳ではない。それは誘拐の知らせに驚いたり身代金の受け渡しに失敗して呆然とする「母」と「外交官」の瞳である。西谷弘は、二人が「見つめ合はない」演出はことさらしても、「見つめ合う」演出は徹底して拒絶しているのだ。
ローマでは。
■海
ローマでの二人の見つめ合いは、あくまでも「母」と「外交官」のそれであり、決して「男と女」のメロドラマ的なそれではない。二人がメロドラマとして見つめ合うためには、あるものが必要であった。アマルフィにあってローマにないもの、
それは「海」である。
西谷弘は、二人のメロドラマが現われる空間に「海」を必要としたのだ。水、それは映画史において、「メロドラマ」を彩る決定的なオブジェであり、砕ける波、それは映画史において「メロドラマ」を飾る必須のメロディである。この「アマルフィ 女神の報酬」は、つかの間の「メロドラマ」の空間に「映画語」としての「海」を選んでいる。ヒッチコックの「めまい」、ダグラス・サークの「南の誘惑」「第九交響曲」「風と共に散る」、マーヴィン・ルロイの「哀愁」、大庭秀雄「君の名は」、成瀬巳喜男「君と別れて」「浮雲」そして「二十四時間の情事」、、、、メロドラマの「名作」といわれる多くの作品には、必ずといっていいほど「水」が関係している。「愛染かつら」「潮騒」「伊豆の踊子」といった、何度もリメイクされているメロドラマから「海」を取ったら果たして映画になるだろうか。
ところでこの「アマルフィ」という場所は、物語上は大臣の到着が一日延期されたことから犯人グループが引き伸ばしのために使ったひとつの方便として成立している。この「アマルフィ」という場所は、まずもって物語上「マクガフィン」として使用されているのである。事実「アマルフィの中身」はなにもない。それがアマルフィでなければ物語は論理的に進行しないという理由がアマルフィにはないのである。それはヒッチコックの「カバン」と同じように、中を開いてみたところで、そこには論理必然的な事物など入ってはおらず、ひたすら「~を起動させるために」という「方便」しか見出せない。天海祐希は身代金の入った思いカバンをもってアマルフィの石段を登り、「はぁ、、はぁ、、」と息を切らしたあと、「南部のガキ」にナンパされ、「はなして!」と叫んだだけで、この場所は誘拐事件とは何の関係もない。犯人たちが「方便」として使ったのだから、関係などあるわけがない。するとどうして「アマルフィ」を映画に挿入する必要があったのか、答えは呆れ果てるほどハッキリしている。
「母と外交官」の関係を、この「海」という空間によって「メロドラマ」に仕立て上げるためである。だからこそこの映画は「アマルフィ 女神の報酬」なのである。徹頭徹尾この映画は「マクガフィン的に」撮られているのだ。
■タイトル
序盤、空港から大使館へと向う車の窓からクレーンで上昇してスタジアムを画面に収める素晴らしいショットのあと、突如画面がゴダールの映画のように真っ暗になり、「アマルフィ 女神の報酬」というタイトルが、黒をバックにして挿入される。その時、ざざぁ~っと聞こえて来た音を思い出してみるべきだ。
それは「波の音」である。
この「アマルフィ 女神の報酬」は、タイトルで既に「波の映画」=「メロドラマ」であることが予告されている。だからこそこの映画は「ローマ 女神の報酬」ではなく「アマルフィ 女神の報酬」なのだ。
この映画は震えが来るほどの「映画語」で撮られている。
■オーヴァーラップ
もっとびっくりすることがある。アマルフィの最初のシークエンスは、車の後部座席から運転席の織田裕二を捉えた後、オーヴァーラップによって航空撮影へとつながれている。
この映画にそれまで「オーヴァーラップ」が使われていただろうか。
「オーヴァーラップ」とは、画面と画面が重なり合っては消えてゆくオプティカル処理であり、用法としては極めてメロドラマ的な手法だといえる。涙のように、夢のように、波のように、ゆらゆらと揺れて行くイメージ、それがこの「オーヴァーラップ」である。
西谷弘は前作「容疑者Xの献身」において、回想シーンでの時間的処理においてこのオーヴァーラップという手法を多用しているが、「アマルフィ 女神の報酬」ではどうだっただろうか。確信の無い私は気になって、もう一度この映画を見に行った。もちろん「オーヴァーラップはアマルフィのシークエンスでしか使われない」と賭けて見に行ったのである。
すると映画が始まり、織田裕二の運転する車がホテルへと到着するショットへとつながれるとき、早くもオーヴァーラップが入ってしまい、がっかりしたのだが、いくら見続けてもオーヴァーラップはそれっきり使われていない。前作「容疑者Xの献身」であれほど多く使われたオーヴァーラップは、言わば映画の開始のショットにおいて使われたきり、アマルフィの航空撮影まで一度も使われていないのである。これはタイトルの「波の音」とまったく同じである。西谷弘や制作サイドは、最初に「メロドラマ」を予告している。「波の音」と「オーヴァーラップ」によって。だがそれらが再び映画に出現するのは「ローマ」ではない。「アマルフィ」なのだ。そしてアマルフィにおいて「波の音」と「オーヴァーラップ」が一気に解放され、幾度も使用されているのである。
映画を撮っている者たちの、この「つかの間のメロドラマ」へと向っていく慎ましやかで映画的な息遣いに思わず震えが来るほど感動したのだが、この映画的な情熱はただ事ではない。重要なのは、こうしたことの技術的な側面ばかりではない。そこまで映画を静かに盛り上げていこうとする誠実な姿勢が画面全体を支配していることである。
■ゴダール「アワーミュージック」への回答
車がアマルフィへと到着し、天海祐希が車から降りた瞬間、画面はカッティング・イン・アクションで大きくロングショットに解放され、「波の音」が大きく聞こえて来る。これは映画の中でタイトル以来の二度目の波の音である。しばらく二人は話しているが、視線は交わらない。キャメラは天海祐希のバストショットへと切返される。だがこれはただの「切返し」ではない。天海祐希のバックに「海」を捉えるためになされた視点の変換である。天海祐希の「背景」に海が波を砕かせ、真っ白に輝いている。次のショットでキャメラは横からのフルショットへと引かれる。間違ってもここでは「会話」を主体とした構図=逆構図による切返しをする意志は存在しない。二人の視線は未だ、交わろうとはしていない。キャメラは再び波を背景とした天海祐希のバストショットへ移行し、織田裕二の後頭部が画面の手前に映し出されている。そのまま天海祐希は手前へと歩き出し、画面の外へと消えて行く。
次の瞬間、画面の中に後頭部を手前に映し出されて「放っておかれて」いた織田裕二が振り向いた。
後頭部が映っていた織田裕二が持続した画面の中で振り向く事で、それまで「放って置かれた」織田裕二の顔が後発的に画面の中にクローズアップで映し出される。今度はキャメラが織田裕二の後方へと引かれ、海の側から二人を縦の構図で捉える。
手前に織田裕二の後ろ姿が、そして遠くの「背景」に階段をトボトボと上ってゆく天海祐希の後ろ姿が映し出されている。どちらもが後ろ姿である。
次の瞬間、遠くの天海祐希がこちらへ振り向いた。
この映画の中で初めて二人はメロドラマとして見つめ合ったのである。キャメラは織田裕二のクローズアップへと切返され、この切なく淡いメロドラマは一瞬にして終わってしまう。
私はこの複雑な画面の連鎖を初めて見た時、びっくり仰天したのだが、ここまで「切返す」ことを拒絶しながら二人は、振り向き、そしてまた振り向く事で初めて二人は映画の中で、男と女として見つめ合っている。こんな凄い「合わせ技」を見たこともない。「海」というメロドラマ的な「背景」と、「切り返し」に対する考察と「振り向くこと」という極めて映画的な光線のエモーションを、このわずか6つのショットによって見事に呈示されているのだ。それまで画面の隅に後頭部だけ見せて「放っておかれた」織田裕二が「振り向くこと」で後発的なクローズアップが形成される。アンドレ・バザンが見たならこれをして「ショット内モンタージュ」とか「同軸の再フレーミング」だとかいって大騒ぎするだろう。「ショット内モンタージュ」とは、「アワーミュージック」でオルガという女性が50メートルくらい離れたところからキャメラへ向って歩いてきて、最後にはクローズアップとなるあのシーンを思い出せばよい。普通ならカットを割ってロングショットからクローズアップにモンタージュするものを、ゴダールは敢えて持続した1ショットの中で、ロングショットからクローズアップへの移行を捉えている。1ショットの中で、モンタージュのような効果を出す、それが「ショット内モンタージュ」というわけであるが、こうした「ショット内モンタージュ」を巧みに使う事で西谷弘はゴダールが指摘した「構図=逆構図による切返し」による「同じ写真」を拒絶しているのだ。事実このシーンの「見つめ合い」という映画的な擬制は、たった一つの切り返しによって達成されてしまっている。こうして織田が「振り向く」ことで後発的に作られたクローズアップと、織田の後方から切り返された縦の構図の二つのショットは、「同じ写真」になりようがない。
さらにその見つめ合った瞬間のショットが、織田の後方からの縦の構図で撮られているため、織田は背中だけが、そして振り向いた天海祐希はロングショットで収められている。なんという慎ましやかな見つめ合いだろう。何度でもいうが、私はこのような切り返しをかつて一度も見た事が無い。
6つのショットは、どれひとつとして「同じ写真」ではないように撮られている。
先に検討したように、終盤、大渋滞の車を挟んで二人は再び見つめ合っている。ここでもまた二人の見つめ合いは「車を挟む」という距離感のなかで慎ましやかになされている。多くの「過剰」を配置する事で、この映画はあらゆる「同じ写真」を拒絶している。
■「アワーミュージック」
「アマルフィ 女神の報酬」は「アワーミュージック」に対するひとつの回答として成立している。重要なのは、この映画が「同じ写真」を拒絶し続けているという事実である。それは「放っておくこと」において、そして「構図=逆構図による切返し」における系譜学的な考察において、西谷弘はひたすら「同じ写真」であることを拒否しながら画面を作っていっている。「同じ写真でないこと」とは、「他者の露呈」にほかならない。人物たちを言語の鎖に従属させず、一人一人を「他者」として映画を撮ること。ゴダールの真意もバルトの真意ももちろん私には分からない。しかし「同じ写真」を拒絶すること、そして「背景」へ魅惑されること、そのどちらもが「他者」という存在に対するある種の誘惑(エロス)に見えるのである。、
■写真と人間が、、、
映画は終盤、大使館の襲撃シーンで、犯人グループの警備員の娘、首にあざのあるホテルマン、神父、そして佐藤浩市それぞれの顔のクローズアップが、その愛する者たちとの「写真」とのあいだで、交互に映し出されている。それまで、人間同士の構図=逆構図による切返しのメロドラマを頑なに拒絶してきた西谷弘が、ここではなんと「人間」と「写真」とを切返しているのである。そしてそのすべてのショットとショットとが「オーヴァーラップ」によってつながれているのだ。
確かにこれらの画面のつらなりは、「構図=逆構図による切返し」とは言えないかもしれない。写真はあくまで想像上のイメージとして挿入されているに過ぎず、実際そこに存在したわけではないからである。だがそもそも構図=逆構図による切返しとは、見つめる相手が実際そこにいるかどうかも不明な極めて映画的な「擬制」に過ぎない編集方法であることからするならば、ここで「人間」と「写真」とを「オーヴァーラップ」というメロドラマ的手法で交互させた演出は、この作品がそれまで頑なに「構図=逆構図による切返しのよるメロドラマ」を拒絶してきたことそれ自体の「過剰」として、極めて映画的な「擬制」=「切返し」として成立しうるのである。
ここでは「人間」と「写真」とを切返すことで、構図=逆構図による切返しが「同じ写真」であることを拒絶しているのだ。それと同時に映画は、彼らと写真の中に映し出された愛する者たちとの「メロドラマ」として成立している。
犯人グループの一人のイタリア娘が、襲撃前、陸橋をさっそうと歩いてゆくシーンのバックには、まるで「アワーミュージック」のように「路面電車」がそれとなく走っている。もちろん「アワーミュージック」と「アマルフィ 女神の報酬」は「同じ写真」ではない。
■「かたち」ではない
アマルフィのシークエンスが素晴らしいのは、ここにおいて「メロドラマ」が「アマルフィ」という「場所」に固定されていないことにもある。
事実、翌朝、佐藤浩市がアマルフィにやって来て、天海祐希と内密な話をした途端、天海祐希は再び「母」へと戻ってしまい、カバンを「持ちましょう」という織田裕二の言葉を完全に無視し、目も合わせずに一直線に車に乗り込み、眠ってしまう。
二人の一瞬の「メロドラマ」を作り上げたものとは「アマルフィ」という場所ではない。「波」と「見つめ合うこと」という「映画語」なのだ。だからこそ、場所は「アマルフィ」であるにも拘らず、二人の関係は最早「メロドラマ」ではなくなってしまい「母」と「外交官」との関係に戻ってしまう。
ちなみに、どうしてわざわざ佐藤浩市がアマルフィまでやって来たのか、これもまたおかしくはないか。別にローマでもよかったはずである。結局のところ佐藤浩市は、二人の「メロドラマ」を一夜で終わらせるためにアマルフィへやって来たと見える。ここで佐藤浩市は、言わば天海祐希を「女」から「母」へと戻らせるための役割を果たしている。そうすることで逆に「アマルフィ」の一夜が一瞬のメロドラマとして輝くのだ。この佐藤浩市もまた、ものの見事に「マクガフィン」なのである。
西谷弘という「雪とクリスマスの作家」が刻んで行くのはひたすら物語から引き剥がされた運動であり、顔であり、息づかいであり、ちょっとした視線の揺れにほかならない。ラストシーンのカウントダウンにおけるイタリアの若者達の瑞々しい表情こそ、この「アマルフィ 女神の報酬」の映画的人格を無媒介的に表している。
■黒い手袋
大使館で掃除をしたあと、人々が去ったオフィスで戸田恵梨香はひとり織田のデスクに座り、ふとデスクの下に落ちていた黒手袋で、自分の左手を包んでみる。キャメラは斜め俯瞰へ引かれ、戸田恵梨香の内部に心理的に立ち入ろうとはしない。この手袋は、織田裕二と戸田恵梨香が初めて出会った空港で、織田裕二がスリから戸田恵梨香の財布を取り戻す時に歯で噛んで脱いだ、あの左手の黒手袋であることを映画はことさら語ろうとはしない。「アマルフィ 女神の報酬」は言葉では語らず、繰り返しもせず、映画語でひたすら振動し続けるのみである。
映画研究塾2009.8.18